有隣のみどころ

「町衆」のまち・有隣

京都の中心部は、「町衆」の築きあげた心意気が今も脈々と生きており、地域を大切にする意識と実践力が高い場所です。有隣学区は平安時代に市坊(市街地)が形成され、1200年以上におよぶ地域としての歴史が続いています。京都五山の一つである万寿寺があったことや朝日神明社が有名ですし、鉄輪之井、命婦稲荷など謡曲にも登場する名所旧跡があります。いわば、まちそのものが博物館のような歴史を持っています。
また、明治2年の番組小学校開校や昭和18年の校外鍛錬場鏡石学舎建設に象徴される、地域に誇りを持ち、地域を育み続けてきた町衆の活動の歴史があります。
町衆の活動は現在も学区の各種活動や地蔵盆、御火焚きといった行事に息づいています。

明治期以来の小学校区

明治元年4月京都府が設置され、時の権大参事・槙村正直は京都市中を六十六区(上尽三十三区、下京三十三区)に分け、各区に一小学校を設置することにしました。この時有隣学区は下京十五番組と呼ばれ、明治2年7月16日「下京第十五稀組小学一校」として開校したのが有隣校です。

当時から五条通を中心に衣料、雑貨、小間物等一の問屋街として繁栄した有隣学区も、明治、大正、昭和と時代の変遺とともに、地域環一境も著しく変化しています。社会の大きな流れには抗しきれないものがあります。工業の発達で都市化が進み、農業社会にみられた人情味が薄れ、また、近年の世の中の変化の激しさと情報化の波は、人々の考えを多様化し、地域活動に先と影を投げかけています。
高齢者人口の増加と若年人口の減少も新たな問題を社会に投げかけつつあります。有隣学区に目を転ずるとき、子どもの数の減少で町内活動の一つである地蔵盆がやりにくくなって久しく、ついに小学校が統合されました。明治以来123年間、学区の中心として我々学区民の心の支えであった有隣校が、児童数減少という止むを得ない現象のため、閉校されてしまったのです。

活きつづける学区の自治活動とつながり

地域の核であった小学校の喪失は、私たちがより広域的に地域の問題を考える機会を作ると同時に、従来からの自治活動との接点をどこに求めるかという課題を提供しています。一方、昨今のマンションの増加は、地域のあり方について、明治初めの町組改変に匹敵する意識の変革を私たちに求めているのかも知れません。
ただ、いかに地域環境が変わり、小学校が統合されても140年以上続いた地域行政の単位としての「有隣」は不変であり、その中で住む我々区民は従来以上に地域の問題を考える機会を作り、広報誌を発刊するなどして、より充実した生活を楽しもうとしています。どうぞ、こうした町衆の町へ、その魅力を十分にご理解いただければと存じます。

有隣学区の史跡・みどころ等

朝日神明宮(下鱗形町)

祭神は天照大神で、清和天皇の貞観年間(859~877)に倭姫の御告げによって丹波国桑田郡穴生村に造営されたが、正親町天皇の元亀3年(1572)に今の地に移った。
当時は、幸神の森といい、現在の松原通・五条通・河原町通に及ぶ一帯に、うっそうと生い茂った森であったという。
遷宮後2度の火災で類焼し規模が小さくなった。明治4年(1871)に村社に列せられた。祭礼は9月16日である。

修正舎(下鱗形町)

享保年間(1716~36)石門心学の創唱者である石田梅巌によって当時の庶民教育をし、一般大衆に及ぼした感化はきわめて大きいものがある。
明治以後、梅巌の遺志を継いでその弟子、柴田鳩翁からさらにその孫にあたる柴田實元京大教授によって、麩屋町五条上ル東側の田口凡洋宅に修正舎を移した。

鉄輪塚(鍛冶屋町)

鍛治屋町西側にある。鉄(かな)輪(わ)とは能の謡曲で、観世、宝生、金剛、喜多の各流で行なわれる四番目物である。
あだし男に裏切られて、くやしがった女が嫉妬のあまり、貴船の宮へ丑の刻詣りをして、男に報いを祈っていた。ある夜「鬼になりたければ、身に赤い衣物を着、顔に丹を塗り、頭に鉄輪を戴いて、その三つの脚に火をともし、怒った心を持ったらよい」とのお告げがあった。一方男は毎夜の夢見が悪いので、安倍晴明に占ってもらったところ、離別した先妻の恨みを深くこうむっているとのことで、ひたすら晴明に頼んで供物をととのえ、茅の人形を人尺に作り、夫婦の名字を内にこめ、肝胆をくだいて祈った。
そこへ、先妻は鬼となって積もる恨みを報いんものとやって来たが、祭壇の御幣に神通力を失い、退散するという筋である。
死後もなお、その怨霊がたたるので鉄輪をもって塚を築き、これを祭ったといわれる。
その後、年月の経つうちに塚も埋もれていたのを、昭和10年(1935)ごろ、町内を整地していたところ鉄輪が発見され、同時に寛文6年(1666)に稲荷社と合祀されていたこともわかり、現在は鉄輪の碑と命婦稲荷大明神が建立されている。以前は婚礼の行列も堺町筋は通らず、また鉄輪の女が住んでいた井戸を鉄輪の女が身投げした井戸として、この井戸に縁切りを祈願したり、この井水を相手に飲ませると悪縁が切れるなどの俗信もある。

長香寺(樋之下町)

創建は慶長年間(1596~1615)である。浄土宗。本尊阿弥陀如来で恵心僧都の作といわれる。長香寺の寺名は、徳川家康の側女で、開基・おこちゃの法名「長香院殿」にちなんでつけられている。家康の側近で近畿地方の大工頭をつとめる中井大和守正清、京都所司代の板倉伊賀守勝重などの助力によって、寺の建立が進められた。それ以来、中井家は代々この寺の維持にあたった。
その後、中井八左衛門利清の息女が紀州徳川家に側女として入り、八代将軍吉宗の生母(お紋の方)となった。将軍の外祖父の墓所であるという関係や、お紋の方(法名・浄円院殿)の遺言によって、享保11年(1726)幕府より祠堂金を下賜され、長香寺では以後これを資金に諸種の法事堂舎の修理代にあてることにした。こういう幕府との関係もあって、長香寺は総本山知恩院の末寺の中でも高い寺格を占めることになった。
長香寺は、近畿一円の神社仏閣はもとより、宮中や幕府関係の土木工事の総元締・大工頭をつとめ、京都の実力者といわれた中井家を壇越にもち、幕府との関係も深かった。元治元年(1864)蛤御門の変の兵火に罹災し、灰燼に帰した。明治初年の廃仏毀釈の嵐の中で、壇信徒はもとより近隣町内の有縁・無縁の人々の浄財によって堂舎の復興をみたことからも、地域社会に占めた長香寺の位置をおしはかることができる。

福田寺跡(福田寺町)

文永9年(1272)3月、鎌倉将軍宗尊親王が京都に還られ、剃髪してから建てられたものである。始めは、東山汁谷にあったので、汁谷道場といった。創始時は天台律宗であったが、弘安年間(1278~88)に時宗に改めた。慶長3年(1598)豊国神社が造営されるとき、この地に移り、さらに後年下寺町に移ったが、その年月は不明である。

明王院(石不動之町)

通称松原不動と呼ばれている。真言宗古義派で東寺に属し、弘法大師作という石不動明王が安置されている。『寺記』によると、当院は、はじめ法相宗で、持統天皇の朱鳥5年(691)に道観大徳が開基した。その頃は、松林が森々としげり、その中に一つの丘があった。平安京が開かれた後、弘法大師が石仏を造ってここに安置したといわれている。
また、王城鎮護のため、都の四方に経文を石室に収めて埋めたという四岩倉の一つで、南岩倉といわれた。
天暦年間(947~957)加茂川の洪水のとき、堂舎ことごとく流失し荒廃したが、天台の僧苔筵が勅をうけて再興した。応仁の乱後再び荒廃し、石像も塵芥の中に埋もれたが、天正年間(1573~92)秀吉の聚楽第造営の時、石狩と称して奇石を集めたとき、その中から苔むした奇石であるとして聚楽第に持ちいれられた。ところが、毎夜光を放って城中に怪異なことが多かったので、元の地に返したという。それ以後、ここに小堂をこしらえて安置した。
大正から昭和にかけて、縁日が開かれ、子供たちが楽しみにしていたという。

燈篭堂(浄教寺)跡(本燈篭町)

東洞院松原上ル燈篭町より、本燈篭町北側にかけて、燈篭堂浄教寺があった。はじめ、東山豊国神社の東にあって、燈篭堂と号していた。平重盛が建立したと伝えられる。後、洛中の東洞院松原上ル辺に移したので、いまなお燈篭町の名がある。その後、多聞山浄教寺と号して天正年間(1573~92)京極四条の南に移転した。

万寿寺跡(万寿寺町・万寿寺中之町)

万寿寺中之町より万寿寺町を経て、朝妻町に至る東西二町、南北二町の広大な地域で、京都五山の第五位に列した巨刹であった。
永長2年(1097)白河上皇は皇女郁芳門院の故宮を精舎に改め、血書の願文を納めて厚く弔い、これを六条御堂と称した。その後、正嘉年間(1257~59)十地上人覚空が弟子慈一上人宝覚とともに、浄土宗を修めていたが、禅を学び万寿禅寺と改称して弘長元年(1261)これを開いた。
文永10年(1273)火を発して堂宇焼失し、元弘2年(1332)紹臨が五条樋ノ口の地に喜捨を受けて報恩精舎を建立して地蔵尊を奉安し、暦応3年(1340)良悦が万寿寺と報恩寺とを合して一寺とした。
永享6年(1434)京都大火のため堂塔焼失したが、同9年(1437)本堂、山門、方丈、法堂、僧堂、庫司等が完成した。
大永8年(1528)また大火にあって堂塔鳥有に帰し、天正年間(1573~92)東福寺に移り、三聖寺と合して寺号をたてたが、明治維新後また万寿禅寺と称するに至った。愛染堂鐘楼は特別保護建造物であり、阿弥陀如来は国宝に指定されている。
東山通、九条通の拡張によって寸断され、現在、門は東福寺境内に、鐘楼および本堂は東山通をへだてて西側にある。

本覚寺(本覚寺前町)

五条富小路東にあった。浄土宗知恩院派に属した。以前、門は西と北の両側にあって、堂は西を向いていた。本尊の阿弥陀は立像三尺あまりで、厨子に安置され、安阿弥の作でとくに如法仏と称している。
開祖は玉翁上人で、本尊を如法仏と称しているのは、仏工安阿弥がこれを造るのに、静かで清らかな場所で、木やうるしなどを精選し、口も聞かず、飲食も動作も慎み、衣服も改め、真心をこめて造ったからだといわれている。
五条通の拡張によって、現在は富小路五条下ル(稚松学区)にある。